昭和47年8月18日 月次祭
只今、神様に皆さんに聞いて頂く話のことをお願いさせて頂いてご挨拶を申しました、。右の御結界に今正樹先生が奉仕しておりますけれども、先ほどここで前講のおかげを頂かれました田中先生が、あのかっぱ頭で厳然とまではいかんけれども、ただ、奉仕をしておる姿を頂きました。これは私共金光教の信心をさせて頂いて日々お取次ぎを頂いて、おかげを蒙っておりますものは、もう、勿論教祖金光大神の御取次ぎの働きの中に日々こうやって信心の稽古をさせて頂いておるのです。これはもうそれこそ厳然たるものです。神様の世界では、神界では教祖金光大神様がもう厳然としてお取次ぎを下さってあります。 これはもう厳然たるものです。私共がだから例えお国替えのおかげを頂きましても金光大神の世界でお取次ぎを頂きながら信心を進め、また、御霊ながらのおかげを頂いて行くと言うこともだから言えるのです。これだけは皆さんが本当にあの、私の信心ぶりからそれを一つ察知して頂きたい。私はそれを実際にこの肉眼で拝んでおります。ですから皆さんはそれを拝んで頂くわけにはいけません。けれどもこれだけは厳然たるものです。ですからこのお取次ぎのあの働きというものは誰が奉仕しておりましても、やはり、生神金光大神のお取次ぎの働きというものがあっておると言うことは事実です。
ですから、それを頂くほうの側が生神金光大神の御取り次ぎを頂いたとしておかげを蒙ってまいりましたら、生神金光大神の御取次ぎの働きが私共の日常の上に頂き、またはそれを表して行くことが出来る。あそこで私はどういうわけ、いつも、教祖の神様がちょっと御結界に厳然と御結界奉仕をして下さっておる姿を頂くのに、今日は田中先生があそこに座っておると言うことはどう言うことだろうかと思うたのです。
今日は、始めてでしたでしょうか、ここへちょうど後、二、三日で、50日間の日を切って合楽に修行にきました。大学を出まして、それから、本部へ学院の教師の資格をとって、それからまた、教学の勉強をさせてもらい、それからいよいよ本当に取り次ぎの場に立たせて頂くためには、やはり人が助からなければならない。為には本当に人が助かっておるところ。生き生きとして、でその生き生きとして人の助かっておる場を合楽に求めたわけです。そして50日間修行をさせて頂きたいというのでこちらに参りました。ね。それで、お話の一番始めに申しておりましたように、せっかっく信心を致しておりましたら、本当の信心を頂きたい真の信心が分りたいそして、真のおかげが頂きたいという念願に燃えて、はるばる合楽に来たと申しております。
御結界に座っておりますとお話がマイクの具合で聞こえないです。だから私はそこんところだけを頂いた。ね。お道の信心をさせて頂いて一番つまらんのは御理解を頂かないこと。これは本当に何十年お参りをしておりましてもね御理解を頂かずにただ、お願いだけをしておかげだけ頂いて帰るという人があるです。本当におしいと思うけれどもひっつかまえてから聞きなさいという訳にはいけませんけれどもね、けれども御理解を頂かないのは、私も寂しいが一番つまらんと。というて御理解を頂いただけではいけん。その御理解を本当に、それを頂くという事、それを実行に現していくという事、生活の上に現していくという生き方をしなかったら一番つまらん。いうならば、親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬという事です。
ね。親の言う事を聞かぬ子が一番つまらぬ。なら今日例えば田中先生がここで、十四五分かんでしたけれども、お話をいたしましたがそのお話しの中からあれ、田中先生、ね、かっぱのごたる先生だなあとみて、聞いただけかもしれません。合楽に妙な先生が来てござるぞと。とただそういうことだけをただ見たり聞いたりしておるだけでは何もならない。私はその御心眼に田中先生が御結界に奉仕してござる、厳然とまではいかんけれども、金光大神の手代わりとして奉仕しておる姿を心眼に頂いて、なら例えそれが田中先生がまだ、修行中の先生がお話をしておってもそのお話の中に生神金光大神取り次ぎの働きがあるのであるから、その中から一言でも頂かせてもらう何物かがなからなければならんが、果たして私は何を頂いただろうか。御結界で聞こえんから耳をこうやって、聞きましたけれども、聞き取れなかった。けれど、ただ、始めにせっかく、信心をさせて頂くならば真の信心がしたいと合楽にはるばるやってきたと言うておりますからです、そこんところだけを私は頂いた。
ほんなこと、せっかく信心をさせて頂くのであるから、日々本当に神様のお心というか神様がおかげが頂かれる道、または、お徳の受けられる道を説き明かしてくださるのですから、そのことを頂かなければならんが、それは、(?)御理解だけではない、御結界に奉仕しておる誰が座っておっても誰がお取次ぎをさせて頂いてもそういう頂き方が大事だと。先生が今日、ここでお話をしましたお話の中から、皆さんはどこをどういう風に頂かれただろうか。それも聞くだけではいけん.頂いただけではいけん。それが自分の信心の血に肉にならなければいけない。そこでなら私は今そのことを頂いてから、とにかく、親の言う事を聞かぬ子が一番つまらぬと神様がお嘆きになるそこのところをね、私は聞いて頂きたいと思う。親の言う事を聞くと言うことは親の言う事をね、ただ黙って聞いておると言うことではないですよ。親の言うことを聞くと言うことは聞いて実行するという事が親の言う事を聞くということでしょうが。ね。
ちょいとこればあっちさへ持っていってくれのち、はいち言うて聞いただけではいかん。はいと言うたらこれを持って行ってくれなければ親の言うたことを聞いた事にはならんでしょうが。ね。だから親の言う事を聞かん子が一番つまらん。今日も、ある青年の方が熱心い参ってきます。お取り次ぎを頂いて。その方のお母さんの里も一家をまああげて信心しておりますけれども、大体お参りはあそこのご主人と息子さんが繁々と参ってくる。お母さんが時々参ってきなさる。そのお母さんの里ですから、この盆に、そのなんですか、盆参りをさせて頂いた。ところがおばあちゃんのお部屋は離れになっているわけですね。離れでやっぱり金光様の信心をしておるけれども、お仏壇も綺麗にお祭りしてある。そして、その、おばあちゃんがその孫を捕まえて悔やまれること。もう本当にまだ、盆だというのに、ね、息子も嫁も孫達も仏さん参りにもこない。
というてまあ長々とお婆さんの愚痴を聞かせて頂いた。そんなことじゃいけんな、なら、おばあちゃん今日は、あの、おじさんも呼んでからこちらの離れの方で一緒にお食事をしようかね、そんならおご馳走を創ろうというて、おばあちゃんが色々なさったからお爺さんのところにね、おじさん今日は一緒に仏様のご仏壇の前で今日はお盆じゃから一緒にご飯を頂こうといいよなさるけんどげんですかと誘いにいった。そしたら、俺のところは今日はとんかつが出来とるけん、とんかつのほうがおいしかろうごたるけんご無礼しようち。とんかつのほうが美味しいち。うちにはとんかつが出来ておるち。ところが向こうは精進料理やけん、家のほうが美味しかろうけんで、今日はご無礼するち。もうその、甥になるその青年がもがっかりしましてね、はあこれじゃあ本当におばあちゃんが悔やむはずだと思うたと。
ね。おばあちゃんが一緒に食事を孫達と一緒にしたい。ところがその、嫁さんの条件がある。おばあちゃんこちらの食堂に来てお食事をさせてあの、されるなら、ご飯が済まれたら十分か十五分のうちにまた、ご自分の部屋にお帰りください。でないと、私共の生活が乱されることになりますからちいわしゃったち。まあそういうなるほど生き方というのも流行っておるのかもしれませんね。お互いが一人一人に個室を持っておりますから、今ごろは。それで自分の生活を乱される。孫達やら、私達のだからご飯が済んだら十分か十五分かの以内にまた自分の家に引き揚げていって頂くという条件なら毎晩朝昼晩お食事に来て頂いてもよいけれども、ここでゆっくりしなさるごたるならば、食事はあちらでして下さいと。
まあ聞いておってね、それはなるほど良いかもしれんけれどもです、何とはなしに寂しいですね。それがね、どうしてそういうことになるかと。昨日私がね年寄りを大切にせよと。年寄りは自分の考えで先に出てきたのではない、神様のおかげで先に生まれてきて、それだけ世のお役に立っている通りであるから年寄りを大切にせよと。信心させて頂くものは、よく心掛けておくが良いと信心の心がけを説いておられます。ね。年をとりますと、やはり仕事も出来んようになる。口もでる。ね。まあいうなら良いところはないというわけです。だから得てして年寄りというものはお粗末にされがちなのですけれども、信心させて頂くものは心がけとして、それを大事にしなければいけないという程しになるほど年寄りというものは、余り大事にされていないと言うこと。一般に。だから信心させて頂くものは、そこを心掛けずしておかげにならん。
昨日、ちょうど、私その話をしておるところに本人があの、息子と二人で参ってきましたからね、この人が一生懸命勉強するように、勉強するようにとお父さんが願いますから子供が本当に勉強する意欲を燃やすおかげを頂くならば、ただ、神様どうぞ、息子が勉強致しますようにという事だけ願うたっちゃつまらん。というて、心がけとして年寄りを大切にせいや、ね、そういう事から子供はあんたが言わんで勉強するごとなるだろうというて話、なかなか理解力があるやっぱり、最高の学問をしておりますから、理解力はあるけれども、実際その、自分ところの親になるとその、悪しよるわけじゃないですけれどもね、人間が無邪気なんですよ。今日は俺んところはとんかつじゃけんせっかくのご案内ばってん、うちのとんかつのほうが美味しかろうごたるあるけんで、そっちはご無礼するというくらいに無邪気な人なんです。
ね。だからもう何十年日参りもさせて頂いて、おかげを頂いておりますけれども、ご理解というものを頂かん。おかげを頂くだけの信者と言うことになるのです。だから神様も本当に助からんと言う事。ね。そういう例えばその、仕事の上におかげを頂いてます。ね。それはもう、(?)も立派に出来ましたし、親のためにわざわざ隠居所まで造るというくらいですから、おかげを頂いておりますけれども、その中に交流、親子の交流という有り難い意味においての交流というものが、いわゆる断絶になっとる。教えを頂かせて頂いて、それを、行じたらもう今日からでもおばあちゃんが喜んで頂くような道が開けてくるのだけれども、それを聞こうとしない。もう言う事を聞かぬ子は親でも仕方がない。言うことを聞かぬ子は一番つまらぬと仰る。ね。そこでなら、親が無茶なことをね、無茶苦茶なことをいうかと言うと決してそうではない。そこで、段々お互い信心の稽古をさせて頂いてです、ね、なるほど、親の言う事を聞くことが有り難いのだという事を分らせて頂くということ。
今日はまあ続け様に、若い人達のいうならば身の上相談のようなお取次ぎをさせて頂いた。婚約が整った。ところが、先方から時期を延ばすように言ってきた。実をいうたらもう、この十月だったんですけれども、色んな事情でどうも、その冷たいいうならば、その、ものを先方のご両親にこちら感じるようなことで心配になる。けれども、最近私が「大急ぎで稽古せよ」と言う事。ね。とにかく、先方には信心がないのであるから、信心のない人のところへ傾くと言うこと。私は信心させてもらいよるからこうというのではなくて、しかもそれは大急ぎで相手のほうへ傾いていくと。そして、傾いただけで、いうなら、ミイラとりがミイラになるのではなくて、それをまた引っさげてというか、連れのうて信心の世界に入ってくるというようなおかげを頂いたらよかろうと。その原因がどうも、あんまり熱心に信心するからのようである。だからあなたが信心を言うならば極端にいうならば止めなさったほうがよかと言う感じ。だから私が一応大急ぎで(?)稽古をしていけと。そういう稽古を持てと。傾いていけと。そしてなら自分、先日からお届があっておりましたから、そのことを申しました。ところが先生そういう気にならせて頂いたらもう心が寂しゅうて寂しゅうてならんというて今日お届をされた。神様例えばだから、信心を止めてしまえと言うことではなかろうか。稽古をするということは向こうのところへ倒れていってそして、向こうのほうを起こして立ちあがろうと言ういき方を頂いたらよかろうと、と、いうようなそれも大変具体的なことを頂いて今日腹が決まった。なるほど、信心も捨てんでよし向こうも捨てんでよしというような道が開けてきたことを喜んで帰られた。 次にはこれも、十四五日前からお取次ぎを頂いておることの結果が段々なってきたことの御礼のお届であった。これもやはり婚約が整ったけれども、まあ結局それが流れてしもうた。ところが本人達はまだ気があるわけです。ね。そこで、私はもう一編相手の男の方に合いたいから、電話でもかけてもう一編あちらの本心を確かめてみたい、また、向こうの心も聞いてみたいというお届があった。そこで、私そのことをお取り次ぎ頂かせてもらったら、★米という字を頂いた。米。こう十の字を書いて、点点点。その点々を結んでこう頂いた。カケの字に。点々を結んでカケの字、だから、これは〇〇さんあの、あんたから電話をかけるというような事はいかんよち。だから、しばらく待たせて頂きなさいち。これはままになることでも、米ですから、これに、熱をかければままになることでもかえってかけの字になるような感じだから、だからその、あいとうもあろうけれども、もうちょっと辛抱してから時期を待ちなさいといったら十四五日ぶりに先日電話があった。向こうのほうからかかってきた。そして、実は例えば親が何と言おうが周囲がなんと言おうがどうでもあんたをもらいたい、あたしもまたもらって頂きたいというような風でまあ、影ながらではあるけれども、それから、一、二回デートをさせて頂いて、本人達はもうそれにはどうでもなら、私自身が先方のご主人になる人のお母さんやら姉さん達に認めてもらわなければならん。その為にはあんたもどうぞ合楽に参って信心をして下さいというところまでなった。
ね。今日はそういうようなお届があった。今日もある、若い方が一年前に、ね、もう大変密接にこうその、まあ、恋愛関係であった。それがある事情で一年間途絶えておった。ね。そこで、一年ぶりにその、先方の男の方からまたいうならばまたよりを戻そうという付き合うてくれという話しであったが、どうさせて頂いたらよかろうかという事であった。★それで私神様にお願いさせて頂いたたら、あの、縄をね、よりをもどしてしまっておるところを頂いた。そして、また、これをなうということはね、あれは、縄というものはいっぺんほどいてのうたものはもう弱いです。縄というものはうっそうとしたこれなら強いけれども、いっぺん解いてからまたのうたところだけは弱くなる。だから例えよし今度結ばれることなってもまた切れるようなことになるから、止めたがよかろう。やあー、親先生、これで腹が決まりましたとこういう。
もう一つ今日はある。今日はもうそういうお届ばっかりじゃったですよ。本当。ここの中にそういう人が2、3人いますよ。やっぱり。その人達がお届したんだから。ね。これもその、仕事場で交際をさせて頂いた。ところが向こうも長女こっちも長男ち。大分深い中になっておるけれどもです、ね、どちらもどうにも出来ない処にあるとこう言う。だから神様にお願いさせて頂いたらね、あの、一つまあ、こっちからでんモーションかけておるごとあろうけれども、これは一つ柳に風でね、もう受け流していくといういき方をとれ。そのうちにおかげが受けられる。あちらも立ち行きゃこちらも立ち行くというおかげになるというお知らせを頂いた。ね。ということを今日はまあ、色々、ありますよ。不思議にね、病人のお届があると、病人が続くです。
こういうのはその若い方達の恋愛関係なんかといったようなのが続くと必ず続くです。ですから私は本当に自身を持ってお取次ぎが出来るですね。そういう場合。ですからね信心させて頂いておって、そういうおかげを頂かせて頂いて、なるほど、親先生任せになっておけば大丈夫だというものが段々出来てきたならばです、ならばそれではないことも親先生任せになる稽古をさせて頂くということが親の言うことを聞くと言うことになるのではないか。信心にはなんでも同じこと。やはり、芯というものが貫いておかなければならん。ただ、漠然と信心しておる、困った時にだけ頼みにいく、お伺いの時だけお伺いにいくといったような信心でね、いわゆる、自分を中心にした信心ではなくて、どこまでも信心、いわゆる神様を中心にした信心。
今日、田中先生が始めに申しておりましたようにです、ね、せっかく頂くならば真の信心を頂きたいと生き生きとした働きを現しておられると聞く合楽にはるばる修行にこさせて頂いた。せっかく、頂くならば真の信心を頂きたいという願いをまずたてなければならないと言うことなのです。このことのおかげさえ頂けばというのではない。ね。せっかく頂くならば真のおかげが頂きたい。ならばまず、真の信心が分かりたいと合楽にこらせて頂いたというのである。ね。そこでなら、今日私がね、お話しをさせて頂こうと思うてご用をさせて頂いたら田中先生が右の御結界に奉仕をしておる姿を頂いた。
なるほど、今日先生がお話しをした中からです、なるほど、神様のお取次ぎをなさる先生の一言でも、頂こうという姿勢、あの中に、真の信心を頂かせていただく一つの要素要点というものがあるならば聞き逃してはならんという姿勢を持ってそれは田中先生であっても頂かなければならないと言うこと。そんなら、大坪総一郎お前は何をあの時頂いたかといわれたけれども、言われたことになったけれども、私はそこから聞いたけれども、こうやって聞いた。聞いたけれども、マイクの都合で聞こえなかったけれども、一番始めに先生が言うた、せっかく頂くならば真の信心を頂きたいと、合楽におかげを頂いたというその、せっかく信心をさせて頂くならば本当の信心を真の信心を頂きたい、そこを私は今日は田中先生の話しから頂いた。
なら皆さんもやはり、そこを頂かなければならない。ね。そして、その姿勢を創らせて頂いてです、今日、若い方達のね、ことを聞かせて頂いたがお取次ぎを頂いて自分の心の中にスキッとするものを頂く。自分の心の中に腹が決まる、ね、幸と不幸の分かれ道というのはね、ここにあるのだと。ね。例えて、その中の一人の話しじゃないですけれども、ね、一年前に付き合いよったからというてよりを戻して結婚するとするか、必ず途中で切れるようになる。そういう幸か不幸かの境にある。ね。一人の女性がもう一遍あの男性と合いたい、だから電話をかけてでもというてしとったら、もう、いよいよあちらは不良少女だろうかと言われるようになったかもしれない。ね。米と言う字にかけの字。点々を繋いでかけの字。だからこれはまあ愛だろうけれどもこれを抑えなさい、辛抱しなさい。そして、待ちなさいというたら、14,5日ぶりに今度は向こうの方から電話がかかってきたと。そこから良い仲が生まれてきておるというて、その良い仲の中から私が第一お宅の家庭の方達に認められなければならない。為にはあなたも、信心をして下さいというところまで行っておるようにね、幸、不幸のいうなら、その分かれ道を幸せの方を辿らせてもらう、その、岐路に立った時にそういうおかげを頂いていきながら、ね、いわゆる、信心の芯というものを定めさせて頂いて、ね、その芯に添うて自分の信心と言うのはただ、自分を中心にした信心から神様を中心に申し上げるところの、神様の本位のいうならば信心。そこから、ね、神様がまた氏子任せ、氏子本位になってくださるほどしの展開になってくるのです。
だからせどうでも一つ今日の田中先生の一言の中からです、せっかく頂くならば真の信心を頂きたいというね、まずこの姿勢を作らなければならない。いうて聞かせてもいうて聞かせてもそれを聞かん子が一番つまらん。いいえ、ききよります。ご理解は毎朝頂きよりますち。それじゃいかんち。ちょいと、こればあっちさえ持っていってくれんのとち、はいち聞いただけなん。それを持っていってくれて初めて親の言うことの聞いたことになるのだから、それを聞かせて頂くそれを今日はですね、只今申しましたような、信心のいわゆる、真の信心を本当に信心を頂きたい、せっかく頂きたいならばそれをより素晴らしい信心を頂きたいという願いをもって田中先生がわざわざ遠方から合楽までも教えを求めてやってきたように、ね、合楽には何かそのようなものがある。頂こうとすれば何か。そこんところを頂いていく信心にならなければならない。
いよいよ明日明後日は夏の御大祭。まあ、暦の上から申しますと秋の季節ですけれども、それこそまだ、残暑のこのように厳しい中にそれこそ、もう本気で年に一回の大祈願祭なのでありますから、一つ本当にあれもこれも一つ本気で願おう、一生懸命で願おうというお祭りなのです。ですからあの、願いの中心を自分本位でなくて神様本位の願いに立たせて頂いて願いその物の光に照らされて願いは必ず自然に成就すると(?)書いてあるですね。あれは先日頂いたご理解なんです。だから願いそのものに光りのあるような願いにたたなければならない。ね。
だから、どうぞ商売繁盛をさせて下さいでも良いのです。だからその商売繁盛の芯が神様に喜んで頂く言うことは例えばこの頃東京の(?)さんがいったような御寿司屋さんですからこういういわゆる、番台の前に立たせて頂いた時にです、一番始めに神様に願わせて頂くことはどうぞ今日もお客さんに喜んで頂くようなお商売をさせて下さいというのが私の願いだといっておりますです。これなんかも素晴らしい願いなの。お客さんに喜んで頂くような商売がさせて頂きたいというような願いならばその願いに照り返された光によって、願いは自然と成就されるところのおかげが頂けれるのですからそういう願いを立てての祈願祭でなからなければならない。ね。一つ本気での願いをさせて頂きたいと思う。 どうぞ